失恋ソングノススメ
どうも、ぺんぎんです。
突然ですが、「渇いたkiss」って曲を知っていますか。これはMr.Childrenの10枚目のアルバム『IT’S A WONDERFUL WORLD』に収録されている曲です(画像のアルバム)。一昨日、友人の結婚式に出席し、その帰りに車を運転しながらこの曲を聴いていました。
今年はなぜか結婚式が立て続き(私の年齢が結婚適齢期ということもありますが)、今年に入って三度目の結婚式でした。これまでに出席してきた結婚式は男性友人の結婚式であったので、女性友人の結婚式に出席するのはこれが初めてでした。これまでの式で新婦を見ていると、両親への感謝の気持ちで涙という場面が多かったのですが、今回は友人の明るい性格もあってか、涙というよりは本当にハッピーで嬉しいというような結婚式でした。
結婚式も無事終わり、仲間と別れ、私は新潟に帰りました。式が他県で行われていたので、帰りは高速に乗って帰りました。一人旅をされる方はわかるかもしれませんが、長時間の車での移動は時間を持て余して色々なことを考えさせられます。特に、結婚式の後ということもあり、別れた彼女のことを思い浮かべていました。自分も彼女とあのまま付き合い続けていたら結婚していたのかなぁと。
別れた彼女には自分から別れを切り出しました。一方的に捨てたという言い方も当てはまるかもしれません。お互いにそうなる理由があったとはいえ、その別れに関しては、私が最低の男であったことは間違いありません。そんな自分が彼女のことを都合良く想うことなどあってはならない、ましてや結婚など。彼女のことを想う資格は私にはないのです。自分だけが傷ついて被害者面することにも自己嫌悪です。彼女の方が傷ついているというのに。
そんなことをぐるぐると考えていた時に不意に流れた曲がこの曲でした。Wikipedia先生によると、この曲は男女の別れの瀬戸際を歌った曲だそうです。傷心の今の自分の心にはとても沁みました。歌っている詩の意味がよく理解できる。いや、できてしまうというべきでしょうか。特にサビの部分はボーカルの桜井和寿さんの歌唱力も相まってとても切なく感じました。
長時間の運転での疲労や眠気、これまでの想いが一気に込み上げてきて、久々に泣いてしまいました。私の車とすれ違ったドライバーは夜中に国道(高速を降りていたので)を走るアラサーの男が車内で号泣しているのを見てさぞかし気持ちが悪かったことでしょう笑
失恋するとわかりますが、世の中には愛や恋を歌ったラブソングはたくさんありますが、失恋ソングというものはあまりないことに気がつきます。大江千里さんの「格好悪いふられ方」や槇原敬之さんの「もう恋なんてしない」など一部の曲は有名ですが、ラブソングと比べると数自体はそんなに多くはありません。
あと、よく「恋愛は時間が解決してくれる」と言いますが、あれほどいい加減な言葉はないですよね。だって、彼女と別れて一年が経ちますが、傷は癒えていませんから。時間で解決する(想いが風化してしまう)恋愛はしていないので。私が思うに、恋愛で負った傷は恋愛で治す(埋める)しかないような気がします。なので、私が以前の恋愛から立ち直れないのは、新しい恋をしていないからだと自己分析しています。
じゃあ、恋をしようという話になりますが、個人的には恋愛って「する」ものではなく、「落ちる」ものだと思っています。無理矢理恋をしようとしても結局上手くいかず、お互いに不幸になるだけです。それは「幸せになること」が目的なのではなく、「恋愛すること」が目的だからではないでしょうか。ただ、出会いのないところに恋は発生しない訳で、そういった意味で恋愛を努力「する」という言い方ならできるかもしれません。また、自分が誰もが放っておかない美人やイケメンならいざ知らず、残念な外見なら尚更新しい恋のきっかけを増やすしかありません。
いつものように話がだいぶ逸れましたが、失恋した時にこの曲はおすすめです。先ほども述べたように、きっと恋愛で負った傷は恋愛でしか治すことはできません。でも、必要以上に傷ついて化膿しないように応急処置をすることはできるのではないかと思います。失恋ソングとは、そんな恋に破れて傷ついた人々を癒し、また次の恋に備えさせてくれる痛み止めのようなものなのではないでしょうか。
私が彼女にしてしまったことは決して許されることではないと思っています。また、連絡先を消してしまった今、もう彼女に謝るすべを持ちません。なので、この心の傷は当分(一生?)癒えることはないでしょう。でも、それでいいのです。自分のしてしまったことを忘れないよう、この傷や痛みを背負って生きていくことこそ必要なのではないかと思います。
心から彼女の幸せを願います。
私もこの曲を聴いて、傷を抱えながらそれでも生きていこうと思います。
ぺんぎん
真実はそこにある『X-ファイル』(特別お題キャンペーン)
こんにちは。気が付いたらいつも靴下に穴が空いているぺんぎんです。
キャンペーンの締め切りは過ぎてしまいましたが、投稿したいので投稿します。
私が今回紹介する海外ドラマは、
『X-ファイル』です。
このドラマを観たことも聴いたこともないという方の為にまずはこのドラマの概要から。(公式ウェブサイトよりhttp://video.foxjapan.com/x-files/2016/introduction/index.html)
“「X-ファイル」は米国で1993年にスタートしたTVシリーズ。異星人にまつわる政府の陰謀を縦軸に、超常現象、怪物、都市伝説などを横糸に、幅広いテーマを扱うSFミステリーである。主人公はFBI特別捜査官フォックス・モルダーとダナ・スカリー。モルダーは幼い頃に、妹が異星人に拉致された過去を持ち、X-ファイル課の仕事に没頭する。一方、スカリーは科学者でもあり、モルダーの意見や推論には、かなり懐疑的。物語は相反する立場にあるふたりが協力して怪事件の真相を追うというスタイル。原則的に1話完結の読み切りスタイルだが、ミソロジー(神話)と呼ばれる異星人と政府の陰謀が絡む連続エピソードも存在する。ミソロジーには数多くの謎が散りばめられており、シリーズ全体の根幹を成している。米国では放送開始直後より熱狂的なファンを獲得。2002年まで、全9シーズン、202回に渡って放映され、二度の映画化もされた人気作品となった。”
簡単に言うと、超常現象に関係する事件を追う刑事ものとでも言いましょうか。日本でもテレビ朝日系列で1995~1997年頃に放送されていたので知っている方もいらっしゃるのではないでしょうか(ちなみに吹き替えはモルダーが風間杜夫さん、スカリーが戸田恵子さん)。
また、最近何を血迷ったのか、「X-ファイル2016」(シーズン10)と題し、続編が放送されました。個人的には物語の続きが見られて嬉しかった反面、映画版でキレイに終わっていたのになんだかなぁという気持ちもあります(しかも、この最新作が続編ありきの作りになっているという)。
さて、私が思うこのドラマの魅力ですが、それは個性豊かな登場人物、特に主役の二人にあると思います。ですので、今回は「X-ファイル」の主役の二人をご紹介します。
■登場人物
○フォックス・ウィリアム・モルダー(演:デイヴィッド・ドゥカヴニー)
モルダーはシーズン1から登場し、ある理由から姿を消すシーズン7終盤まで主役として活躍します。再登場は終章であるシーズン9のラストエピソードですが、これは演者であるドゥカヴニーがギャラで揉めた為というのは有名な話です。また、最新作のシーズン10では主役として復帰しています。
モルダーは優秀な捜査官ですが、過去に妹がUFOに誘拐された一件から超常現象を肯定しており(本人曰く、「科学では説明がつかない」)、荒唐無稽な超常現象事件ばかりを追い続けている為に周囲の人間から変人(スプーキー)呼ばわりされています。でも、エピソードを追っていくと実際変人であることは間違いないのですが。
モルダーの個人的オススメエピソードは、ランプの魔神を題材にしたシーズン7の21話「三つの願い」。モルダー失踪という大事件の前の爽やかなエピソードで、オチもキレイ。
○ダナ・キャサリン・スカリー(演:ジリアン・アンダーソン)
モルダーの相棒である女性、それがスカリーです。最新作のシーズン10でもモルダーの相棒として活躍します。当初は敵対する組織のスパイとしてX-ファイル課に送り込まれてきましたが、徐々にモルダーとの信頼関係を築き、相棒以上恋人未満といった感じになりました。また、医師であり科学者でもある為、超常現象には否定的な立場をとっています。このモルダーとの見解の違いが物語を面白くさせており、事件が発生した際のモルダーとの掛け合いはこのドラマの見所の一つです。
スカリーの個人的オススメエピソードは、吸血鬼を題材にしたシーズン5の12話「吸血」。モルダーとスカリーが普段お互いをどう見ているかがユーモアたっぷりに描かれています。
ちなみに、モルダーを演じているデイヴィッド・ドゥカヴニーは役に反して超常現象否定派、スカリーを演じているジリアン・アンダーソンも役に反して超常現象肯定派であるということは何とも面白いことです。
話は少し逸れますが、人と話していると何かを信じているかいないかという話になることがあります。例えば、占いの結果や霊の存在だったりしますが、人によって信じるか信じないかは別れます。その時思うことは、そのこと自体を信じていない人でも、「そのことがあり得ないということを信じている」ということに他ならないのではないかということです。ややこしいですが、つまり、信じる対象が異なるだけで人は何かしらのことを信じているのではないかと思いました。
このドラマでもスカリーは最期まで(最新作でも)超常現象を否定しています。しかし、最終的には事件解決の為、超常現象と向き合うようになります。これは決して超常現象を信じるようになったのではなく、自分が信頼するモルダーが目指すことだから信じているのではないでしょうか。
現実でもそうですが、情報や事象自体ではなく、その出処や人物を信頼することが何よりも大切であるような気がします。
以上、主役の二人に焦点を当ててこのドラマを紹介しました。続きものの為、シーズン1から観た方が分かり易いのですが、なんせ202話(+映画版、シーズン10他)もエピソードがあるのでそれもなかなか難しいと思います。ただ、できればシーズン1だけでも観てもらえればこの作品が自分に合うか合わないかがわかると思います。
また、最新作であるシーズン10から観ても良いかと思います。基本的に話はオムニバス形式となっており、他のシーズンとは異なり6話しかないので時間のない方でも見やすいです。特に第3話「トカゲ男の憂鬱」と第5話「バビロン」はX-ファイルらしい良いエピソードだと思いました。
皆さんもこの年末年始に暇があればご覧下さい。私は『フルハウス』を観ます。
ぺんぎん
『働かないアリに意義がある』(読書紹介)
こんにちは、ぺんぎんです。
転職活動があまり上手くいかず、早くも弱気になっています。
そんな中、面白い本を見つけましたので今日はその本をご紹介します。
■『働かないアリに意義がある』(ISBN978-4-8401-3661-7)
長谷川英祐著、メディアファクトリー新書015
《本書の紹介(カバーより)》
“働き者で知られるアリに、われわれは思わず共感する。だが、生態を観察すると、働きアリの7割はボーっとしており、1割は一生働かないことがわかってきた。しかも、働かないアリがいることこそ、組織は存続できるという!これらの事実を発見した生物学者が著す本書は、アリやハチなどの社会性昆虫に関する最新の研究結果を人間社会に例えながら、わかりやすく伝えようとする意欲作である。”
この本の表題の意味についてですが、本書より一部を抜粋してご紹介します。
アリには刺激に対する反応の違い、つまり「個性」があり、この「個性」の違いによって働きアリと働かないアリに分かれます。働かないアリと言うと少々語弊があり、通常の働きアリよりも刺激に対する反応が鈍い個体というだけで、実際は刺激自体が大きければ働かないアリも働くようになるようです。
これはコロニーを存続させる上で大きな意味合いを持ちます。アリも動物の為、疲労という概念があります。一様に同じ働きをする個体ばかりでは疲労が分散せず、コロニー内の仕事は回らなくなってしまいます。そこで、この「個性」が活かされます。個体差があることによってコロニー内のバランスが保たれ、疲労も分散されます。
つまり、一見すると非効率なようでも働かないアリのいるシステムの方が長期間存続できるということなのです。
著者である長谷川先生はこう語っています。
“重要なのは、ここでいう働かないアリとは、第4章で紹介するような社会の利益にただ乗りし、自分の利益だけを追求する裏切り者ではなく、「働きたいのに働けない」存在であるということです。本当は有能なのに先を越されてしまうため活躍できない、そんな不器用な人間が世界消滅の危機を救うとはなんだかありがちなアニメのストーリーのようですが、シミュレーションはそういう結果を示しており、私たちはこれが「働かない働きアリ」が存在する理由だと考えています。働かないものにも、存在意義はちゃんとあるのです。”
これはあくまでアリの話ですが、私も働きアリを見習って働けるチャンスがきた時に全力で働けるよう準備を怠らないようにしたいと思います。頑張るぞい。
ぺんぎん
ぺんぎん、就活はじめるってよ
こんにちは、ぺんぎんです。
「ぺんぎん」というハンドルネームを使っていますが、私自身は寒がりです。
このところ比較的長い記事を書き、しかも自分の手に負えず持て余していたので、今回は短い記事というかこれからの抱負をここで述べさせていただきます。
さて、私は現在仕事をしていません。退職の理由は省きますが、前職を退職してから早半年以上が過ぎています。その間は公務員試験の勉強をしたり、資格試験の勉強をしたりしていました。勉強していたことを除けば、本を読んだり、映画を観たり、スポーツをしたり、まるで高等遊民みたいな生活をしていました。また、公務員になるつもりであったので、すぐに働く気はありませんでした。進路も今年中に決まれば良いかな程度に考えていました。しかし、現在の結果として、公務員試験には全て落ちてしまい、資格試験も先日の試験をもって予定していた全ての試験を受験し終えました。
そんなモラトリアムな日々を過ごしていましたが、先日は勤労感謝の日、何かに駆られるようにやはり自分も何らかの形で社会に貢献しなければならないと思いました。また、最近はどうも何事にもやる気が起きず、物足りなさというかぼんやりしている自分がいました。貯金も底をついてきたという理由もあります。つまり、いよいよ働く日が来たという訳なのです。
そこで今回、このブログで再就職宣言することにしました。2016年11月24日現在、このブログの読者は50人弱(感謝…圧倒的感謝!!)、この皆様の前で、働くことを宣言すれば自分も気合が入り、また、一人くらいはこのことを覚えていてくれるのではないかと思いつき、このブログで記事にすることにしました。勝手なことではありますが、証人よろしくお願いしますm(_ _)m
「私は2016年中に再就職を決めます!!」
待っとけよぉお!!社会ィィィィィィィィイ!!働くぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉお!!
ぺんぎん
Why don't you do your best?~映画『セッション』にみる社会に蔓延る「よくやったよ」病~
こんにちは、ぺんぎんです。
まだ20代のはずなのに最近は眠くて12時を迎えることなく寝てしまいます。
さて、はてな匿名ダイアリーを閲覧しているとこんな記事を見かけました。
要約すると、自宅に居ながら映画やドラマが配信で見られるのに、なぜわざわざ手間のかかるレンタルDVDを借りにいく必要があるのか、という意見です。
これに対して、以下の意見もありました。
要約すると、配信されているのは人気がある一部の作品だけであり、必ずしも自分が見たい作品がある訳ではない。ソフトでしか見られない作品もある、という意見です。
私はこの方と同意見です。ネットで映画やドラマを見られることは確かに便利ですが、すべての作品を網羅している訳ではありません。最新の、または人気がある(もっと言えば利益が上げられる)作品だけが配信されているように感じます。
余談ですが、映画『ファイト・クラブ』のブルーレイ版では、ラストシーンに演出としてサブリミナルで一瞬画面にペ〇スが写りますが、これも配信では無理でしょうね笑
また、このダイアリーの筆者は以下のように述べてます。(該当記事より抜粋)
フィルム→ビデオ→DVD→ネットフリックスと、どんどん作品は厳選されていく。そこで選ばれるのは収益が見込まれる大衆的な作品だけだ。少数に深く刺さるマニアックなものは捨てられる。たくさんの映画が捨てられてきた。その中には、もし鑑賞していれば、あなたの人生を変えるような映画も無数にあったはずだ。父親からの手紙が何よりも泣けるように、一人ひとり、深く刺さるものは違う。その可能性が、たくさん捨てられてきた。(中略)
そうやって表面的なものしか残らなくなった地球では、映画に深い感動を覚える人間をいない。1人もいない。誰もが「こんなもんだ」と……「上映時間分楽しめればいいや」と……その程度の感慨しか映画に持っていない。映画を見て人生が変わったり、苦痛から解放されたり、生きるエネルギーをもらったりすることはない。映画にそんな力があるなんて、誰も思っちゃいない。
さて、それを踏まえた上で本題です。先日映画『セッション』(原題:Whiplash)を観ました。『セッション』は、音楽大学を舞台にドラム奏者である学生とそれを指導する教師との心と心のぶつかり合いを描いた映画です。第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、鬼教官役のJ・K・シモンズの助演男優賞を含む3部門で受賞しました。以下に作品のあらすじを紹介します。
あらすじ(日本版公式サイトhttp://session.gaga.ne.jp/story/より抜粋)
名門音楽大学に入学したニーマン(マイルズ・テラー)はフレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。ここで成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然。だが、待ち受けていたのは、天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった。浴びせられる罵声、仕掛けられる罠…。ニーマンの精神はじりじりと追い詰められていく。恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーが目指す極みへと這い上がろうともがくニーマン。しかし…。
音楽をやっている方もそうでない方も楽しめる一押しの作品です。
この作品の中で特に印象に残った場面があります。それは主人公であるニーマンがある事件を起こして退学となり、偶然見つけたジャズクラブで当時の指導教官であったフレッチャーと再会し、酒を呑みながらフレッチャーが自らの指導方法をニーマンに弁明する場面です。
彼は言います。「自分が学生を厳しく指導するのは、彼らにジャズ界の伝説になって欲しいと願うからだ。自分の仕事はバンドを指揮することではない。偉大なミュージシャンを育てることだ。かつて、ヘマをやらかしたチャーリー・パーカーに、ジョー・ジョーンズはシンバルを投げつけた。しかし、それがパーカーの克己心に火をつけ、彼を偉大にした。自分のやったことに後悔はない。」と。
また、フレッチャーはこう続けます。「よくやった(Good Job)と生ぬるく褒めそやすことで、第二のチャーリー・パーカーの才能を殺すことこそが悲劇だ」と。
映画に限りませんが、私は段々と人々の価値観や評価のハードルが下がってきていると感じています。「それって本当にベスト(全力)なの?」と思う時がよくあります。具体例を挙げれば、最近の雨後の筍のように出てくる作品愛に欠けた、クオリティではなく話題性だけで利益を上げようとする漫画の実写映画がそうです。また、観る側も初めから期待していなくて、「まぁこんなもんか」という感じの低い目線で作品を観ている人が多いような気がします。
仕事でもなんでも「こんなもんか」や「よくやったよ」という考え方が物事のクオリティを下げたり、努力の方向性を変えてしまっているような気がしてなりません。ベストを尽くすのではなく一定の評価が得られればいいと考えたり、努力へのアプローチそのもの止めてしまう危険性さえあります。
この「低価値観」ともいうべき価値観が蔓延した結果、悪貨が良貨を駆逐するように、大衆的で表面的なものしか生き残れず、抜きんでるものが生まれない、もしくは生まれにくくなってしまうのではないかと分析します。
と、ここまで自分の考えを述べてきましたが、そんな考え方だからこそ、ストーリーを通してその理論を体現しているこの作品が私には深く響いたのかもしれません。
■最後に
ある著名な大学教授はこう言いました。
私はこれに一言を付け足してこの記事を強引に〆たいと思います。
「それがお前の本当のベストか」
そしてまたオチはない。
ぺんぎん